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私を走らせるもの vol.5 東北編(2)

私を走らせるもの vol.5 東北編(2)

by touring_m@pp1e

更新日:2020年9月12日

思い出の風景、季節の味覚、そして本や映画、音楽などなど、あなたを旅へと誘うものは何ですか?

あの頃見た光景が忘れられなくて…。小説に出てきた風景を自分の目で見たくて…。この曲を聴くと無性に旅に出たくなってしまって…。あの人に逢いたくて…。など、時に切なく、時に衝動的に、私たちを旅へ駆り立てる「装置」があります。不思議なことに、ほかの人にとっては何でもないものが、自分にとってはとても大きな影響を与えることも少なくありません。そんな、「私を走らせるもの」について、ツーリングマップル著者陣に語っていただきます。

目次

~私を走らせる『奥州街道』後編 ~ by 賀曽利隆

福島宿を出発し、奥州街道の後半戦を開始する。

Vストローム250を走らせ、瀬上(せのうえ)宿を通り、桑折(こおり)宿へ。ここは奥州街道のきわめて重要なポイント。桑折の重要さを物語るかのように、旧伊達郡役所の建物が残されている。宿場の町並みを走り抜けたところは桑折の追分。ここで「東北二大街道」の奥州街道と羽州街道が分岐する。(「追分」とは道が分かれる場所。街道の分岐点)

桑折の追分。右が奥州街道、左が羽州街道

桑折宿の次は藤田宿。JR東北本線・藤田駅の周辺が宿場町だ。ここが奥州街道58番目の宿場で、ほぼ中間宿になる。

次の貝田宿に向かっていくと左手に厚樫(あつかし)山(国見山)が見えてくる。ここは文治5年(1189年)に源頼朝が奥州藤原氏と戦った「阿津賀志山の古戦場」跡。奥州軍はこの一帯に大規模な防塁を築いて戦ったが破れ去った。もしこの戦いで奥州軍が勝っていたなら、その後の東北の歴史は大きく変わっていたのは間違いない。厚樫山の山頂には「奥州合戦八百年記念」の大きな碑が建っている。

宿場の面影が今も残る貝田宿から国見峠を越え、福島県から宮城県に入った。

越河(こすごう)宿、斎川(さいかわ)宿と通り、白石宿へ。

白石は片倉氏1万5000石の城下町。白石城と武家屋敷を見てまわり、「うーめん番所」で「ざるうーめん」を食べた。白石名物の「うーめん」は400年の歴史を持つ素麺風のうどん。細麺特有のスルスルッとしたのど越しを楽しんだあとは、白石川沿いの白石温泉「薬師の湯」に入る。ここは「かんぽの宿白石」の頃からのなじみの宿なので、大浴場と小さ目の露天風呂の湯につかるとホッとした気分にひたれる。

白石宿からは宮宿、金ヶ瀬(かながせ)宿、大河原宿、船迫(ふなばさま)宿、槻木(つきのき)宿と通り、岩沼宿へ。

岩沼で奥州街道と水戸街道(陸前浜街道)が合流する。水戸街道は現在の国道6号。千住宿で奥州街道と分岐すると、松戸宿、水戸宿、平宿、相馬宿と通り、終点の岩沼宿で奥州街道に合流する。千住→岩沼間には全部で55宿がある。

岩沼宿では「日本三大稲荷」の竹駒神社に立ち寄る。鳥居をくぐったところには芭蕉の「桜より松は二木を三月越し」の句碑がある。随身門、唐門と通り、豪壮な造りの本殿を参拝。そのあと神社近くの「武隈の松」(二木の松)を見る。芭蕉が句に詠んだ松だ。根の生え際から2本に分かれているので「二木の松」といわれている。現在の松は7代目だとのことで、芭蕉が見たのはその2代前の5代目らしい。

岩沼宿からは増田宿、中田宿、長町宿と通り仙台宿に到着。日本橋から423キロ走っての到着だ。

仙台に到着

「杜の都」仙台ではケヤキ並木を走り、青葉城(仙台城)へ。大手門の隅櫓の脇から青葉山を登っていく。そして天守閣跡に建つ騎馬姿の伊達政宗像と対面した。

仙台は古くは千代、もしくは川内と書かれたようだが、名もなき寒村だった。慶長6年(1601年)に政宗が岩出山からこの地に城を移したとき「仙台」に改めた。足下を広瀬川が流れる青葉山を難攻不落の要害の地と見たのだろう。それ以降、仙台藩62万石の城下町としてこの地は繁栄しつづけた。62万石というのは加賀藩、薩摩藩に次ぐ日本第3位の石高。それを引き継いで、仙台は明治以降も東北最大の都市になっている。

もし伊達政宗が岩出山からこの地に移らなかったら、仙台は名も知れぬ奥州街道の一宿場で終っていただろうし、仙台を拠点にした東北の覇者、政宗の存在がなかったら、奥州街道は細道のままで整備されることもなかったに違いない。幕府直轄の「江戸五街道」としての奥州街道は白河までだったからだ。政宗の残した功績はきわめて大きい。

仙台宿を出発。七北田(ななきた)宿、新町宿、吉岡宿の3宿を過ぎると次は古川宿。広大な水田地帯を貫く国道4号を走る。吉岡宿から古川宿までは20キロもある。奥州街道の全コースの中でも、宿場間の距離が断トツで一番、長い。

なぜこの間だけ、これほどまでに宿場間の距離が長いのか。その理由は吉岡から色麻(しかま)、中新田(なかにいだ)を経由して古川に至る街道が本道だったからではないか。江戸時代の中新田はこの地方の中心地。瑞雲寺という豪壮な造りの寺もある。それに対して「吉岡-古川」間の奥州街道はノンストップのバイパスのようなもの。歩いて旅した時代、吉岡宿から古川宿の間だけで半日はかかった。

古川からは荒谷宿、高清水宿、築館(つきだて)宿、下宮野宿、城生野(じょうの)宿、沢辺宿、金成(かんなり)宿の7宿を通り、岩手県境に近い有壁(ありかべ)宿へ。JR東北本線の有壁駅前が奥州街道の宿場町。ここには奥州街道で唯一、本陣が残されている。以前は味噌・醤油の醸造元で、私宅も改造されることなく、当時のままの姿を今にとどめている。じつに貴重な存在だ。

有壁宿の本陣

有壁宿から県境を越えて岩手県に入った。

第85番目の一関宿に到着。ここは伊達一族の田村氏3万石の城下町。一関宿の次が前沢宿だが、その間に平泉がある。平泉ではまずは義経・弁慶主従の最期の地、高館義経堂に行き、足下を流れる北上川を見下ろした。高館には「夏草や兵どもの夢の跡」の芭蕉句碑が建っている。そのあと中尊寺を歩いた。

平泉は「奥の細道」の奥州路最北の地。街道に詳しい芭蕉は仙台で奥州街道を離れ、石巻街道で松島を通って石巻へ。石巻からは北上川沿いの一関街道で一関にやってきた。一関の旅籠に連泊し、平泉の高館から中尊寺の金色堂を見てまわったあと、その日のうちに一関に戻っている。

平泉からは前沢宿、水沢宿、金崎宿、鬼柳宿、黒沢尻宿を通り花巻宿へ。花巻では北上川の堤防上にVストローム250を止め、宮沢賢治の「イギリス海岸」を歩いた。水量が多く、ドーバーの「ホワイト・クリフ(白い断崖)」とは似ても似つかない風景だったが、心に残る北上川の眺めだ。

花巻からは石鳥谷(いしどりや)宿、郡山宿を通り盛岡宿に到着。日本橋からの走行距離は630キロになった。

盛岡に到着

盛岡でひと晩泊まり、翌朝は盛岡城址の岩手公園を歩いた。盛岡といえば南部藩20万石の城下町。それなのに城址には石垣が残る程度…。ちょっと寂しい。

盛岡宿から次の渋民(しぶたみ)宿へ。ここは石川啄木の故郷だ。

渋民では「石川啄木記念館」を見学。館内をひとまわりすれば、石川啄木の生涯がよくわかる。敷地内には啄木が代用教員を務めた旧渋民尋常小学校の校舎が残されている。「石川啄木記念館」に隣あった宝徳寺は啄木の幼年期を過ごした寺。境内には啄木の歌碑が建っている。国道4号(旧道)をはさんだ反対側の渋民公園にも啄木の歌碑。啄木公園からは北上川の向こうに聳る奥州街道の名山、「岩手富士」の岩手山(2038m)が大きく見える。奥州街道の宿場の中では渋民宿からの距離が一番、近い。

奥州街道から見る岩手山

渋民宿の次の沼宮内宿を過ぎると国道4号を右折し、旧奥州街道に入っていく。2キロほど行くと左手には御堂観音堂。その境内から湧き出る「弓弭(ゆはず)の泉」は、昔から東北一の大河、北上川の源だといわれている(正確にいうと北上川の源は奥中山高原の西岳)。「弓弭の泉」の流れ出る所は北上川源流公園として整備されている。

北上川源流の御堂観音堂

「弓弭の泉」から旧奥州街道を行くと一里塚があり、ゆるやかな峠に達する。峠で交差する県道30号を左折し、国道4号に出た。そこは中山。IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅前だ。

中山から北に走るとすぐに、国道4号の最高所、十三本木峠(中山峠)に到達。

国道4号の十三本木峠

ここまでが北上川の世界になる。峠を越えると川は変わり、馬渕川の世界になる。小繋宿、一戸宿、福岡宿、金田一宿と通り、国道4号で青森県に入った。

一戸宿に入っていく

三の戸宿、浅水(あぞうず)宿、五の戸宿、七の戸宿、伝法寺宿、藤島宿、七の戸宿を通り、野辺地宿に到着。目の前には陸奥湾の海が広がっている。野辺地の海岸には常夜灯が残されている。その説明は興味深い。

「浜町の常夜燈は、文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきた。常夜燈には、毎年3月から10月まで夜ごと灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。

江戸時代には物資輸送の大動脈であった大坂(大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。

湊には湊役所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合に停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた」

野辺地宿の常夜燈

野辺地宿は奥州街道と当時の日本の大動脈、北前船が行き来する日本海航路との接点で、相当にぎわった港だったことが、海岸に残る常夜灯から読み取れる。常夜灯の前には北前船の千石船が復元されている。

野辺地宿の千石船

野辺地宿からは海沿いに走り、小湊宿、野内宿と通り、青森宿に到着。日本橋から852キロの青森駅前でVストローム250を止めた。奥州街道は松前街道と名前を変えて、さらに津軽半島の三厩宿までつづいている。

早朝の青森駅前を出発

青森でひと晩泊ると、次の油川宿へ。ここは「東北二大街道」の奥州街道と羽州街道の合流地点。油川宿の中心街には「青森発祥の地」碑が見られる。

国道280号の旧道で蓬田宿、蟹田宿、平館宿と通っていく。

平舘海峡の灯台前を通り、津軽海峡に出ると北海道が見えてくる。絶景岬の高野崎に立つと前方には北海道最南端の白神崎、右手には下北半島北端(本州最北端)の大間崎、左手には津軽半島北端の龍飛崎を望む。

高野崎から今別宿を通り、日本橋から938キロ走って奥州街道終点の三厩宿に到着。ついに到着したという感じだ。千住宿から数えて117番目の宿場。三厩港の岸壁にVストローム250を止めた

奥州街道の終点の三厩に到着

奥州街道終点の三厩はじつに興味深い。

三厩港の前には「松前街道終点」の碑が建っている。松前街道というのは「青森→三厩」間の奥州街道のことだが、じつは三厩が終点ではなく、さらに船で蝦夷地の松前まで通じているので松前街道なのだ。

「松前街道終点」の碑に隣りあって、「源義経渡道之地」の碑が建っている。断崖上には義経寺がある。津軽海峡を渡った北海道・日高の平取には義経神社があり、義経は「競馬の神様」になっている。義経も弁慶も北海道ではあちこちで神として崇め奉られている。弁慶岬もある。これはいったいどういうことなのか。

平家を打ち破り、源氏に大勝利をもたらした立役者の源義経は兄頼朝の反感をかって都を追われ、義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目秀衡の庇護を受けた。しかし頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。

秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。それは頼朝の平泉攻撃3カ月前の文治5年(1189年)4月30日のことだ。

こうして悲劇の英雄、義経は、奥州・平泉の地で最期をとげたことになっているのだが、なんとも不思議なことに平泉以北の東北各地には義経・弁慶の主従が北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が点々とつづいている。

それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森、そして津軽半島の三厩へとつづいている。「義経北行伝説」はさらに北へ、蝦夷地へと果てしなくつづいている。

奥州街道の終点、三厩までやって来ると、この地が終点どころか、街道はさらに北へ、北へと延びていることに驚かされてしまう。「義経北行伝説」はまるでそれを証明しているかのようだ。三厩では、途方もなく広い北の世界に胸を躍らせてしまう。

筆者:touring_m@pp1e

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