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ツーリング前に知っておきたい!「あの映画・小説はココで生まれた」vol.15

by touring_m@pp1e

更新日:2020年6月17日

漫画やアニメ、映画やドラマ、小説、歴史的事件などの舞台を旅する「聖地巡礼」がメジャーになってきた昨今。物語の舞台になった場所は日本中にたくさんありますが、案外、そのことを知らずにツーリングで訪れて満足していることも多いものです。
せっかく行くなら、その土地にちなんだ作品を鑑賞したり、歴史を知ったりしたうえで行ったほうが、何倍も楽しめますよね!そんな作品や歴史、土地について、ツーリングマップル各著者から紹介していもらいます!気になった作品を見て、その場所を訪れてみましょう!

松尾芭蕉「おくのほそ道」(1702年)の舞台 by 賀曽利隆(東北担当)

松尾芭蕉「おくのほそ道」(1702年)の舞台 by 賀曽利隆(東北担当)

『おくのほそ道』は、日本人の書いた紀行文の中では最高傑作だと、ぼくは思っている。そのためいままで何度も読んでおり、文庫本を持ってツーリングに出たこともある。「サハラ砂漠往復縦断」(1988年~1989年)にも持っていったほどだ。

東京からみちのくを旅して、日本海側を南下、大垣(岐阜)まで至るという一大紀行を記したものだ。その全行程をバイクで追っていくのはじつにおもしろい。

『おくのほそ道』の出発点は、東京・深川の森下。小名木川にかかる万年橋のたもとに、芭蕉の旧居(芭蕉庵)跡があり、今ではそこに「芭蕉稲荷神社」がまつられている。

すぐ近くの隅田川河畔の「芭蕉庵史跡庭園」には、芭蕉の坐像が建っている。ここは隅田川と小名木川の合流地点で、絶景ポイントだ。隅田川の上流側には新大橋、下流側には清洲橋がかかっている。

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万年橋は葛飾北斎の『富嶽三十六景』にも描かれているが、実はそのたもとに昭文社の制作本部もある。

万年橋から直線距離で500メートルほど、仙台堀川にかかる海辺橋を渡ったところに「採茶庵」跡がある。そこには「奥の細道」に旅立つ芭蕉像が建っている。芭蕉は元禄2年(1689年)3月27日(新暦では5月16日)、弟子の曽良を伴ってみちのく(東北)へと旅立った。

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深川から船で千住に渡った芭蕉は奥州街道を北へ。草加、越谷と通り、第1夜目は粕壁(春日部)に泊まった。第2夜目は間々田、第3夜目は鹿沼に泊まった。そのあとは日光から那須を通り、江戸を出てから23日目に東北に入った。

奥州街道(現在の国道294号)の白坂宿から白河関跡に行き、古代東山道の旗宿で泊まるあたりは、さすが「街道の芭蕉」といったところだ。西行を慕い、好奇心旺盛で、日本の歴史にも強い興味を抱いていた芭蕉という人物がじつによく伝わってくる。

福島県白河市の白河関跡には芭蕉の記念碑が建っている。そこには『おくのほそ道』の一文が彫り刻まれている。

「心もとなき日数を重ねるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」
(訳:ここまで、なんとなく不安な気持ちのまま来たが、白河の関にかかったところから、ようやく旅をするのだ、という心も定まってきた。)

当時、白河を越えてみちのくを旅するのはまさに難行苦行。芭蕉はあえてその世界に飛び込んでいった。今でいえば世界の荒野を求めて旅立つ冒険家のようなものだ。

芭蕉は白河の関を越えて、「さー、みちのくを旅しよう!」と、心が定まった。そして白河からさらに奥州街道を北に行く。今でいえば国道4号だ。

矢吹→須賀川→郡山→二本松→福島→白石→岩沼と通って仙台へ。そこからは塩釜、松島、石巻を経由して一関へ。仙台から石巻街道→一関街道で一関まで行くところが、日本の街道を知り尽くしていた芭蕉らしいところだ。

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『おくのほそ道』の「奥州編」では、平泉が一番北になる。

その後、一関から岩出山まで南下し、鳴子温泉へと進む。

芭蕉はきっと温泉が好きだったのに違いない。那須では那須湯本温泉に立ち寄ってるし、福島では飯坂温泉に立ち寄っている。鳴子温泉の湯にもきっと入ったことだろう。そして尿前の関から奥羽山脈の中山峠を越えて羽州(出羽)に入った。

『おくのほそ道』の「羽州編」の始まりだ。

芭蕉は奥羽国境の中山峠上の堺田から山刀伐峠を越えて尾花沢に下っていくのだが、この「堺田→尾花沢」間というのは『おくのほそ道』のなかでも最も困難をきわめた難コース。芭蕉はその間のことを次ぎのように書いている。

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尿前の関

南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎ、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風荒れて、よしなき山中に逗留する。

蚤虱馬の尿する枕もと

あるじのいわく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばといひて人を頼みはべれば、究きょうの若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携えて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危きめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじのいふにたがわず、高山森々として一鳥を聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまづいて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内の男のいうやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまいらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸のとどろくのみなり。
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芭蕉は山刀伐峠(なたぎりとうげ)を下った尾花沢には10泊する。そのあと山寺(立石寺)に参拝し、最上川の川舟に乗り、羽黒山へ。最上川河口の酒田に出ると、日本海を北上した。

羽州編の一番北は象潟だ。

当時の象潟は文字通りの潟。松島に負けず劣らずの絶景の地だった

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南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通う道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越といふ。江の縦横一里ばかり。俤(おもかげ)松島に通いて、また異なり。松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり
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象潟を描いたこの一文は『おくのほそ道』のクライマックスシーンといっていい。

その象潟も1804年(文化元年)の大地震で隆起し、潟は消えた…。

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芭蕉はもっともっと東北の旅をつづけたかったのに違いないとぼくは思っている。もしかしたら津軽海峡を渡って、蝦夷の地まで行きたかったのかもしれない。しかし象潟で旅を断念し、酒田に戻っていく。

酒田からは急ぎ足で日本海を南下し、越後路を通り抜け、北陸路の金沢→福井→敦賀から大垣へ。そこには「奥の細道むすびの地」碑とともに芭蕉像が建っている。

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芭蕉は大垣からさらに、伊勢神宮の式年遷宮を参拝するために伊勢に向かっていく。長島までは船で、そこからは参宮街道を歩いていく。

芭蕉の生まれ故郷は伊賀・上野。伊勢への途中では故郷に立ち寄っている。

大垣にゴールしたあと、伊勢に向かっていくところで『おくのほそ道』を終わらせているところがじつにいいではないか。

 

筆者:touring_m@pp1e

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